別役実とオモコロ永田

先日見たものの話をします。

 

3/2  「天才バカボンのパパなのだ」作:別役実 演出:玉田真也 下北沢本多劇場 

 

別役実の戯曲「天才バカボンのパパなのだ」を、玉田企画・玉田真也が演出。主演は、お笑いコンビ「男性ブランコ」の浦井のりひろ。

 

別役実らしい噛み合わない会話が終始展開され、誰かが言い始めた謎の論理(でも一見筋は通っている)について侃侃諤諤の議論が巻き起こり、どんどん内圧が高まってゆくさまがとても面白く、笑えた。浦井演じる巡査が渦の中心におり、登場人物は彼を巻き込んで騒ぎを大きくしていく。論点をずらしていく会話が多数展開されるが、そこに、令和で流行っている「論破」のような狡猾さはない。あくまで、各々が各自の強固な論理に従って動いているという、この世界の成り立ちってそういえばそうだったよねという、原初の凶暴な状態が出現する。その凶暴な論理において、社会で決められている約束事など、一瞬で破壊されてしまう。例えば、誰が巡査のお尻を叩くかで順番待ちをし、その並び方で口論になると言った具合に。そこでは、なぜ巡査のお尻を叩いてはいけないかなどは、一顧だにされない。

 

オモコロの永田氏が以前、

 

“加湿器に給水するたびに「もしここにおしっこ入れたら……」と思ってしまう。それをしない方向に繋ぎ止めてるのが「デメリットやばい」という損得なのが怖い。もし、脳のその部分だけぶっ壊れてしまったら絶対にしてしまうから。薄氷ですよ。その薄氷をお互い信じあって成立してる「社会」は凄まじい。“

 

 

 

とツイートしていたが、その「デメリットがやばい」という認識がなくなってしまったのが、「天才バカボンのパパなのだ」の世界だった。だって、巡査以外の登場人物たちは最後に、自主的に青酸カリを飲んで死んでしまうのだ。それも、死ぬのっていいね!みたいな感じでワイワイと。そういえば登場人物たちは、バカボンや、バカボンのパパや、レレレのおばさん(この作品ではおばさん)だ。別役は赤塚不二夫に許可を取って、この作品を書いたらしい。別役はこれに限らず、「マッチ売りの少女」「ジョバンニの父への旅」(元ネタは宮沢賢治銀河鉄道の夜』)「やってきたゴドー」(元はベケットゴドーを待ちながら』)など、流通している物語を換骨奪胎した戯曲を多数書いている。流通している物語が、社会で流通している「約束事」なら、それをずらしてみせ、ホッブズのいう「自然状態」ともいうべき原初の凶悪な社会像をのぞかせる。そのことが、別役実の関心ごとであり、たくらみなのではないだろうか。そして、この舞台はそのことに十分に成功していると思った。人気芸人たちを起用したことも、それに一役買っている。芸人たちが、タロットの「愚者」のカードのような危険さやあやしさを醸し出していた。

 

【怪文書】正しいラーメンの食べ方

ラーメンの正しい食べ方についてお話しします。

今の日本人は誰も、ラーメンの正しい食べ方について知っていない。

 

それは、スープから先に飲むのが礼儀だとか、私語をしないで食べ切るのがマナーだとか、そういう話では全くありません。

 

皆さんは、「箱庭療法」についてご存知でしょうか?

箱庭療法は、セラピストが見守る中、クライエントが自発的に、砂の入った箱の中にミニチュア玩具を置き、また砂自体を使って、自由に何かを表現したり、遊ぶことを通して行う心理療法」です。(一般社団法人 日本心理士会 の定義より)

 

患者は、思い思いの箱庭を作ることで、その時の精神状態を再現し、癒やされてゆくのです。

 

察しのいい皆さんならもうお分かりでしょう。

ラーメンとは、なんなのか。

それは、店主の精神状態がそのまま反映された、箱庭なのです。

 

つまり、箱庭の意味を読み解くことが、何よりも最初にすべきことなのです。

このチャーシューの配置は、何を象徴しているのか?

ここに浮かんでいる背脂は、なんのメタファーなのか?

刺さっている海苔が意味しているのは、「断絶」か、あるいは「保護」か・・・?

 

意味を読み解くことから始めましょう。

そして、食べ始める前に、あなたなりの解釈を、メモしておきましょう。

ラーメン屋に、紙とペンを持参することが必須なのは、そのためです。

 

そして、あなたなりの解釈をし終えたなら、次にすべきことは、店主に「ことば」をかけてやることです。

「箱庭」を見て、ノーリアクションでは、礼節を欠きます。

店主の精神状態に合わせた、「ことば」をかけてあげましょう。

(例:「大丈夫、あなたが断絶だと思っているその壁は、あなたを守るための壁なのですよ」など)

 

可能なら、店主と話し込むのも良いでしょう。

「箱庭」の解釈について十分話し合って、お互いの心のわだかまりがほぐれたら、割り箸を割ってもらって大丈夫です。

 

ここまで、平均的には、20分を要するでしょう。

 

行き交う情報が加速した現代、誰もがラーメンの本当のあり方を忘れてしまっています。

今一度、基本にかえって、ラーメンの正しい食べ方、否、正しい「読解」を行なってみてはいかがでしょうか。

 

私は、解釈までは辿り着いても、店主との対話に成功した経験はありませんが、皆さんならできるはずです。

頑張ってください。

 

〈終〉

 

非公開風日記 2/25(日)

書こうと思っている小説の資料として、ギヨーム・アポリネール『一万一千の鞭』(河出文庫)を読んだ。

 

それとは関係なく、アチェべ『崩れゆく絆』が衝撃的だった。

そこからミシェル・レリス『幻のアフリカ』へ。レリスはフランス人だから、白人側の視点で見ていく。アチェべはナイジェリア人で、イギリス人に占領されたから少し事情は違うが。

山口昌男『アフリカ史』カプシチンスキ『黒檀』、いずれも持っているアフリカ関連の書籍であるから、読もうと思う。いずれもアフリカの外の視点から書かれたものであることが懸念といえば懸念の一つである。

 

宇多田ヒカルを1日聴く。Prisoner of Loveからの連想で、「ラスト・フレンズ」、そしてそこから私の記憶の引き出しの中で同じ場所に入っていたドラマ、「薔薇のない花屋」を見たいと思う。愛について。認識について。孤独について。〈私〉であることについて。傷について。悲しみについて。宇多田ヒカルは本当に示唆的で博学だ。spotify宇多田ヒカルトークも面白い。尊敬している。

 

物理学についても宇多田は関心があるだろうと思い、朝永振一郎『物理学とは何だろうか』を読む。

コペルニクスからケプラー、そしてガリレオニュートンに至る、物理学の道程。

ケプラーが神秘家でもあり、彼の文章には神秘術や霊的なものを根拠とする部分があるかと思えば、数学を用いた微細な火星の軌道に関する研究もあったりして、当時の物理学は呪術や神秘術・魔術とくっきりと区分けされていなかった学問だったことがよくわかる。

ガリレオケプラーの書いたものは一顧だにしなかったという話を面白く思った。

 

数学チャートの1Aをやっているが、「命題の真偽」のところで、十分条件か、必要条件か、必要十分条件か、そのどれでもないか、答えるという問題があり、その正答率の低さに落ち込む。自分は全く論理的な人間ではないということ!?きちんと反例を検証しないといけない。

朝永振一郎の文章を読んでいると小島信夫を想起した。

論理性が似ている。

 

 

 

 

 

 

絶対上演できないコント「告白」

「告白」

 

登場人物

A=男子生徒

B=女子生徒

 

この台本は上演を想定されていない。

7月、夏休みに入る直前の高校の屋上。

夕方、放課後。

 

上手側にB=女子生徒、下手側を向いて、うつむいて立つ。

下手側からA=男子生徒登場。

 

A「ごめん、待った?」

B「ううん」

A「ここ初めて来た」

B「うん。綺麗だよね」

A「うん。話って何?」

B「ええっと・・・」

A「・・・」

B「社会科の時間で、フィールドワークあったじゃん」

A「うん」

B「あの時に一緒にグループワークできて、すごく楽しかった」

A「そうか」

B「・・・あんまりそうは思わなかったかな」

A「いや、そんなことないよ」

 

A、結論をうながす様子で

 

A「話って?」

B「えっと」

 

晴れていたのに突然、厚い雨雲が垂れ込め、そこそこの雨が降り始める。

Aは嫌そうな顔をするが、Bは雨などは全く気にしない様子。

 

B「わたしね、昔から内気な性格で、うちって、大家族なんだけど、中でも大叔母の影響力がとっても強くて、大叔母の顔色を常に窺っている環境で育ったのね。」

A「・・・」

 

雨が次第に強くなり、黒澤明の映画で降っているのと同じ、(実際に)墨汁が混ざった雨が降る。風も強くなる。

 

B「その大叔父っていうのが、定期的にパーティを開くのが好きで、で、別に、うちの家族について知ってもらうことが、のちのちその、結婚とか、いやそういうことを考えてるわけじゃないけど」

A「・・・」

 

墨汁で真っ黒に染まった二人。雷も鳴り始める。

 

B「でも家族について知ってもらうことは、私を知ってもらうことにも繋がるかなっていうか」

A「あっ」

 

AとB両方に落雷し、二人とも直立したまま黒焦げになって絶命するが、意識は話し続ける。死体のそばにはAとBの魂が(一般的に思われているような人魂のような形ではなく、A=ネジのような形とB=ウニのような形の発光体が)落ちている。

 

B「・・・なんでこういう回りくどい説明から入っちゃったかっていうと、私は自己紹介とかが苦手で、自分を説明する時に周りのものを説明することで、輪郭としての私を浮かび上がらせたいっていう思いがあって」

A「・・・」

 

屋上の地面から餓鬼が3匹湧き出し、炭になったAと Bの体躯を喰い始める。餓鬼は魂には興味なし。

 

B「だから、なんていうか・・・付き合ってください」

A「・・・いいよ」

B「やった、でも私たちの容れ物がなくなっちゃった」

A「・・・そうね」

B「ごめんね、私の話が長かったからだよね」

A「いや・・・全然・・・」

B「でもこれからどうしよう・・・」

A「・・・」

 

AとB、取り急ぎ餓鬼の身体を乗っ取る。ここから高校生に戻るまでの道のりはかなり面倒臭い。人間に戻れるかどうかもかなり怪しい。戻れたとしても別の身体に入るわけなので完全に別人として過ごし直さなければならない。その点を考えていなかったのはAもBも愚かだと言わざるを得ないだろう。告白は屋内で簡潔にすべきである。

 

 

 

 

 

ーーー

あとがき

これは現在通っている「ことばの学校 演習科」の課題で、800字〜1200字で「告白」もしくは「運命」のどちらかのワードをお題にしてなんか書け、という課題で提出しました。

こういうことを考えても提出する場がなかったのでやれてよかったです。

 

 

 

非公開風日記 2/8 1月主催ライブ総括

2024年の1月は、主催ライブ「happy hour」で幕を開けました。

と言っても14日(日)に開催されたので、2024年は例年より14日遅れて年明けとなる運びになりました。

暦関係の皆さま、ダマでやってすいません。

主催ライブはまず、ガチでひょんなことから知り合いになった画家の「ハ息子」さんにフライヤーを描いてもらった。ハ息子さんはフォロワーが(本当に)20000人いるから、そういう人と知り合いなんです!というアピールと、あとは僕が全くデザインができないため発注し、素晴らしいものを描いていただきました。

 

作:ハ息子(ハムスターの息子に産まれてよかった)

 

デザインが上がってきたものを何回かああしてこうしてとシロウトなのに色々言っていて気づいたのは、自分の脳の、絵をイメージする回路が未発達であるということ。ところどころ回線が離れていて、電子が飛び飛びに繋がり、たまに開通するといった感じで、これはそこの回路を鍛えていないからだと思った。まだ別のところで書くが今、佐々木敦さん主催の「ことばの学校 演習科」に通っていて、その講座は受講生一人一人が自分に合った言語表現(出力先はなんでもいい、小説、演劇、詩・・・)を身につけることを目的とする講座なのだが、そこに通おうと思うほど自分は言語に関する回路を鍛えたい、あるいはある程度回路は開通していると思っているのだが、絵・イメージに関してはそうでもないのだという気づきを得た。これは嗅覚に関するイメージとか、他の分野でもありそう。個人差があるのも面白いと思う。

 

そんな感じで完成したポスターは非常にお気に入りのものになった。

今後もイメージを的確に伝えられたらより嬉しい。

ハ息子さん、ありがとうございました。あんたぁ最高だよ。

 

新ネタライブ「happy hour」は新ネタを5本やりました。

ピン芸人としての再出発です!!!みたいにぶち上げたけど、やってみて思った&人と話していて言われたことは、いわゆるお笑いライブの3〜4分ネタよりも、ある程度長い尺で数人でやるユニットコントの方が向いているのではないかということ。

以前、パーカーホというトリオを組んで、そう言ったことをやっていたのですが、自分でもそういうやり方がしっくりくる気はするし、そう言った見られ方が合っている気がする。

youtube.com

 

でも今回作ったネタは全部お気に入りです。2度とやらなそうなものもあるけど。

特にこの「高級フレンチ」のネタは好きなので、見る場合は絶対に後半まで見てください。

youtu.be

YouTubeが回っていなさすぎてウケてます。

サムネを見ればそれもむべなるかな。

ピンでも活動しますが、コントユニットの結成を画策中です。

震えて待ちなさい。

 

非公開風日記12/27 2023年にみた演劇

 

1/14 かまどキッチン『燦燦SUN讃讃讃讃』こまばアゴラ劇場

3/20 劇団、本谷有希子 『掃除機』 KAAT

4/1 岩井秀人『おとこたち』 パルコ劇場

4/28 東京乾電池 『命弄ぶ二人の男』 スタジオ・乾電池

5/25 劇団た組 『綿子はもつれる』 シアターイース

6/7 ハイバイ『再生』シアターイース

8/3 EPOCH MAN『我ら宇宙の塵』新宿シアタートップス

10/30 円盤に乗る派『幸福な島の夜』こまばアゴラ劇場

11/24 イキウメ『無駄な抵抗』世田谷パブリックシアター

12/12 ダダルズ『袋破裂』三鷹SCOOL

12/21 SCOTトロイアの女』『世界の果てからこんにちは』(録画)吉祥寺シアター

 

今年は割と多めにみたと思う。演劇見るのってお金もかかるし、と思ってるけど学生の時の方が結局見ていたような感じがするからかかるのは時間の方なのか?「演劇は時間の缶詰」と言う表現をしていたのは徳永京子さんだったか?演劇が純粋観客が少なくなっていると言う話がある。自分も純粋観客ではないので全くそうだなと思うのだが、パルコ劇場や世田谷パブリックシアターでやっている劇の時は流石に一般客の多さとその層の厚みを感じた。

結構前に見たものが多いので忘れてしまってるものが多いけど、『おとこたち』『再生』はやっぱりおもしろかった。あと『掃除機』『綿子はもつれる』も。

ダダルズ『袋破裂』は7〜80分の一人芝居だったけど、長い一人コント・漫談なのではないかとも取れたし、こういうものを積極的に真似してパクっていきたい。

 

この間ベートーヴェンの第九を聴きに行ったけど、観客席から出てくるノイズが演劇よりあまり気にならなかった。演劇の時は「誰???今の!!!」みたいな感じの圧力があると思うけど、音楽はジョン・ケージじゃないけどノイズも「音」のうちではあるからだろうか、咳我慢してる人とかいたけどそんなに気にしなくていいじゃんと思った。席がオーケストラから近かったから、チェロがギコギコいうノイズとかが聞こえてカッコよかった也。

 

カーテンコール(n回目、覚えてないくらいやった)

 

昔のヨーロッパ(いつだっけ)では演奏会の時も観客はくっちゃべりながら見ていたそうで、こんなにしっかり統制されて「聴く」ようになったのは最近だというようなことが『聴衆の誕生』(中公文庫)に書いてありました。おもしろかったけど忘れちゃった。

 

そんな人がやる、2024年1月14日のライブ、R-1対策のネタなどもやるので、ぜひ来てください。

tiget.net/events/284172

 

 

 

 

 

非公開風日記 12/14 楽しくやるかどうか問題

自立≒自律とは、

「世界とは個別具体的なものであるということへの諦め」

にほかならないと悟った。

抽象的で一般的な物事は世の中には存在しないのだよ、ポッター君。

 

九鬼修造も、「いき」を、「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である」というようなことを言っていた。

 

これを書くのにだって、『「いき」の構造』の文章を調べている。正確に書かなければいけないから。

正直面倒臭いが、全てをえいやっと解決してくれる魔法は存在しない。

 

なんでこんなことを書いているかというと、新ネタライブ「happy hour」の小道具や台本の制作に追われているから。

制作というのは本当に目の前のことを一個一個やって行くしかない。

 

ピン芸人をやりたいのは自立したいから」と某所で息巻いたが、自立するというのは辛い。

 

それはそれとして、最近思っている「楽しくやるかどうか問題」というのがある。

 

簡単に言えば、物事の進め方において、

「ビジネスのこと考えようぜ派」vs.「楽しくやったほうがいいじゃん派」

の対立のことを考えている。

 

これは特にエンタメに関係している現場でよくある。

これを発生させる要素の一つとして、「大きなお金が絡まない」というのがある。

大きなお金が絡むと、クリエイティブな集団においては、「ビジネスのこと考えようぜ派」=Aと、「楽しくやったほうがいいじゃん派」=Bの、AB間の脱構築とでもいうべき立場が出現するから、AかBかという二項対立ではなくなる。AとB両方の立場が持ちつ持たれつの状態になり、利益や成果に良い影響をもたらすことも多い。

 

しかし、往々にして学生演劇や学生お笑いなど、「大きなお金が絡まない」イベントにおいては、A vs. Bの構図が出現し、議論は平行線になることが多い。

小屋代などの出費があるにはあるが、個々人が少しバイトすれば済んでしまい、尚且つ得られる利益も打ち上げで消えてしまうような場合。

 

私はこのB=「楽しくやったほうがいいじゃん派」の主張がずっとわからなかった。

特に、「楽しい」というのがどういう状態を指しているのかわからない。

こう書くと感情を失った壊れし現代人という誹りを免れないが、それはそうです。

 

でも、その上でBの立場の言う「楽しい」とはなんなのか?

仮説として浮かび上がったのは、「利己」としての楽しさだった。

翻って、Aの立場を「利他」の立場とすることもできる。

 

ビジネスのことを考える=儲け=利己なのではないか、と言う考え方もできるが、

お客さんという対象を満足させ、次に繋げることが善であるという立場にたてば、「利他」も成立する。

 

一方で、Bの立場が利己的なのはすんなり理解できると思う。身内での楽しさを優先させているからだ。

 

ただ、これではA vs. Bという二項対立を、利他 vs.利己 に置き換えただけで、何も進展していない。それに、利他の方が、利己よりも倫理的に優れているように感じるから、このような対立が成立しないようにも思える。

 

しかし事を複雑にさせているのは、こういう直感ではないか。

 

つまり、Bの立場の人々も、ビジネスのことは視野に入れていて、それが大した儲けを生まないのならば、せめて楽しくやったほうがいいじゃん、という諦めである。

 

これはAの立場からするとかなりげんなりする意見だ。なぜなら、往々にしてそれは正しいからである。

 

個人でやっている規模のものが、大きなブレークスルーを産むことは少ない。

しかし、ブレークスルーを産んだものは、必ず個人の小さな営みから出発しているのである。そこに関しては諦めないのが、Aの立場である。

 

では、この対立を解消するには、どうすれば良いか。

 

提案1:大きなお金を絡ませる

最も良い解決策はこれである。二項対立を消滅させるためには、前提条件を変えてしまうのが良い。

 

提案2:やらない

最良ではないが、これも視野に入れて行くのはありだと思う。

 

提案3:余命いくばくかの人物を登場させる

嘘でも、余命いくばくかの人物が「楽しくやりたい」と言えば、周りはそれに同調せざるを得ない。逆にその状況でもビジネスを優先させるサイコパス経営者を炙り出し、どこかの企業にヘッドハンティングさせることもできるので、一挙両得である。

 

提案4:その日を永遠に繰り返す

本番当日が何度も繰り返し、その日からずっと抜け出せなくなれば、目的が「抜け出すこと」に変わり、二項対立を超えた第三極が発生する。

 

提案5:デスゲームを開始する

黒幕的な人物が画面の向こうでデスゲームを開始すれば、A vs.Bの構図から、総当たり戦に構図を変えることができる。

 

提案6:トーナメント戦にする

総当たり戦の対戦回数の多さが気になる場合は、トーナメント戦にして対戦回数を大幅に削減することができる。

 

提案7:敗者復活戦を行う

トーナメント戦であることにより、優勝候補同士が早めに当たってしまい片方が負けてしまった場合でも、敗者復活戦を行うことで盛り上がりを担保することができる。

 

上記のような提案が考えられるだろう。

なんにせよ、個々人が、個別具体的なことに対処するほかはない、という「諦め」こそが、自立を導き、試合の成功、観客の動員、スポーツの振興につながってゆくのである・・・・・・・・

 

そんなことを考えている人間が主催するライブ、ぜひ来てください。

tiget.net/events/284172